南北朝の頃、北朝方から逃れた大塔宮護良親王が五百瀬を通過しようとした際、荘司に行く手をさえぎられ、通過を認める代わりに錦の御旗を置いていくこととなった。
その後、遅れてきた大塔宮の家来がそのことを知って大いに怒り、荘司の家来を水田に投げ飛ばした。
そのとき投げ飛ばされた家来が腰を抜かしたため、その水田を腰抜田と呼ぶようになった。明治の大水害で埋没したため、現在は川底にねむっている。
奈良県吉野郡十津川村五百瀬